春重ね(古川検校作曲)
福田恭子第2回博士リサイタルより
(箏:福田恭子/三絃:岡村慎太郎)
解説
古川検校作曲
山口巌箏手付
明治18年(1885年)3月に山口巌が、師である古川検校(龍斎)の三絃に箏手付した楽曲であり、同年3月26日に知恩院の千畳敷で音曲研究会が開催された際に、初めて演奏された。
作詞は三井家の後室によるものといわれ、冬春夏秋と四季の風物の移り変わりを次々と歌い、また新春を迎える楽しさを歌っている。
京風手事物で、前歌・手事・後歌の形式をとり、歌は京都らしい独特の節回しを感じさせる部分が特徴的である。
三絃の節をもとに、箏は細かく派手な旋律が続き、手事部分では同じような「かけあい」が現れるが、全てのかけあいにおいて一定ではなく、少しずつ変化をみせながら進行していく。
また、「かけあい」後の旋律も工夫が凝らされており、三絃と箏がそれぞれ独自の旋律をもち、複雑に絡み合いながらも、ユニゾンの部分もあり、合奏としては試行錯誤を要する構成となっている。
歌詞
富士の根の、雪もさすがに春の色を、見せて霞める朝ぼらけ。
桜咲くかたは、いづくかしら浪の。
よする岸辺の水匂ひつつ。
昨日今日、いつしか夏にならの葉の。
風に落ちくるひと声は、まだはづかしの森蔭に、忍ぶも嬉し足引の。
山ほととぎす鳴き捨てて、いづちの空も短か夜の。
隈なく照す月影に、君が調ぶる爪琴の音に通ひ来る松蟲の、声も哀れに秋ふけて。
まだき時雨の雲と雲、行き合ふ空の年波に、尽ぬ流れの竜田川。
めでし紅葉に世のうさを、知らで今年も送り来て、重ぬる千代の春ぞむかへん。
現代語訳
春の訪れの遅い富士山の峰の雪もさすがに春の色が見えて明け方が霞んで眺められる。
桜咲く方はどこか分からないが、白波の寄せる岸辺の水も潤んでくる。
昨日今日といつか夏になって楢の葉が風に落ちてくるように空から聞えてくる一声は、まだ恥しく思って森蔭に人目を忍んで隠れるが、しかし我が世の季節となったと歓んで山時鳥は鳴き捨てて飛んで行く。
どちらの空も短夜である。 曇りなく照らす月光に懐かしい君の弾ずる箏の音に通ってくる松蟲の声が哀れに聞えて秋が更けていく。
季節にはまだ早いが時雨の雲と雲とが行き合う空の年の波が尽きず流れてゆく竜田川。
紅葉の名所だけに、観賞した紅葉に世の憂さ辛さも忘れられて今年も送ってきて、また訪れて重ねる千代の春を迎えることになるのである。
箏曲演奏家 福田恭子