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吼噦(多門庄左衛門作詞・岸野次郎三作曲)

調弦 三絃:三下り 箏:平調子
作詞 多門庄左衛門たもんしょうざえもん
作曲 岸野次郎三きしのじろうさ
箏手付け:市浦検校・浦崎検校・宮城道雄・富崎春昇とみざきしゅんしょうなど

はじめに

吼噦こんかい』は私にとって大変思い入れのある曲です。その歌詞の理解を深めるため、いくつかの解説書や歌詞解説を参照しながら内容を調べてみました。

吼噦の歌詞解説は、さまざまな意見と見解がみられます。『続・箏曲歌詞解明』(松沢冬秀著)では「歌詞がどんな筋書を唄っているのかはっきりしない」ために、登場人物や行動・台詞の主体が不明確であると書かれています。

私としては、古浄瑠璃『信太妻しのだづま』のストーリーが背景にあると想定して『吼噦』の歌詞を解釈していきました。つまり、「狐狩りに追われているところを救われた狐が美しい女に姿を変え、やがて男と結ばれ子を授かるも、子どもに自分が本当は狐であることがばれ、泣く泣く森へ帰ってゆく」というストーリーです。

人それぞれの見解がありますので、私自身の解釈となりますが、『吼噦』の歌詞を理解する一助となれば幸いです。

歌詞

痛はしやな母上は、花の装い引き替えて、しおるる露の床の内、知恵の鏡もかき曇る。
法師にまみえ給ひつつ、母を招けばあと見返りて、さらばと言わぬばかりにて、泣くより外の事ぞなき。
野越え山越え里うち過ぎて、来るは誰故其様そさま故、誰故誰故来るは、来るは誰故其様そさま故。

君恋し、寝ても覚めてもさ、忘られぬ、我が思い、我が思い、それおもんみれば、春の花散りて、秋の紅葉も色づく、世の中は電光石火の夢の後、捨てて願いのよさ、捨てて願いのよさ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀。

君は帰るか恨めしや、のうやれ、我が住む森に帰らん、勇みに勇んで帰らん。
我が思い我が思い、心のうちは白菊の、岩隠れつた隠れ、しのの細道かき分け行けば、虫の声々面白や、降りむる、やれ降り初むるやれ降り初むる、今朝だにも今朝だにも、所も跡もなかりける。
西は田のあぜ危ないさ、谷峰しどろに越えゆけば、あの山越えてこの山越えて、焦がれ焦るる憂き思い。

通釈

痛ましいことですね。花のように美しかった姿がうって変わって、(童子に自分が人でないところを見られてしまい、もう一緒には居られまいと)悲しみにうちひしがれ、とこで眠る童子にすがり付いて、前後不覚に泣くのであった。

萎るる悲しみにうちひしがれる。しょんぼりする。
智恵の鏡もかき曇る運が尽きてしまって、思うようにならないと正しい判断ができなくなるということ。

(童子の父はまず初めに)法師と会い、(そして女の姿に化けて現れた狐と出会い)母(女狐)を(妻として)招いた。そんなことを思い返していると、別れを踏み切ることができず、ただただ泣くばかりであった。

法師童子の父である安倍保名やすなが、狐をかばって石川悪右衛門あくえもんに捕縛された際、法師の姿に化けた狐に救われた。解放された保名は傷を洗い流すために川に行き、そこで美しい女(保名に助けられた狐が化けた姿)と出会い結婚するという話を踏まえていると推察される。

野を越え、山を越え、里を過ぎて、(このような所まで)やって来るのは誰のためでしょうか。あなた様(母上様)のためです。誰のためでしょうか、誰のためでしょうか、やって来るのは。やって来るのは、誰のためでしょうか、あなた様(母上様)のためです。

母君が恋しい、寝ても覚めても、忘れられない我が思い、我が思い。それ、よくよく考えてみれば、春の花が散って、秋の紅葉も色付くように、この世は電光石火のごとくあっという間に過ぎた夢の後のようだ。(この世では母上様を見つけ出すことは叶わないのであれば)あの世で願いを叶えるしかない、あの世で願いを叶えるしかない、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀。

それ注意を促したりするときに発する言葉
惟ればよくよく考えてみれば

母君は帰って来るのだろうか悲しいなあ。(と、童子が思っている一方で、女狐は)ここから出て行こう、私が住む森に帰ろう、気持ちを奮い立たせて帰ろう。
私の思い、私の思い、心の内は、白菊が岩や蔦に隠れるように、他の人には分からないでしょう。篠の生えた細道をかき分けて行けば、虫の声々が趣深い。(時雨が)降り始めた、やれ降り始めた、やれ降り始めた。今朝さえも、今朝さえも、(母上様の)居場所も痕跡もなかった。
西は田の畔が危ない、山や谷をよろよろと越えて行く。あの山を越えて、この山を越えて。想い焦がれて辛い想いを抱きながら。

しどろに秩序なく乱れている様

箏曲演奏家 福田恭子

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