西行桜(菊崎検校作曲)
福田恭子第1回博士リサイタルより
(箏:福田恭子/三絃:平野裕子/尺八:青木彰時)
解説
文化2年(1805年)版『歌曲時習考』(かきょくさらえこう)によれば、紣屋孫八の作詞、菊崎検校の作曲とされる。
詞章は、西行の庵で桜の老木の精が、桜の美しさを知る、謡曲「西行桜」の一節を、そのままとって歌詞にしたものである。
謡曲の節は下京辺の花見客が、西行庵の桜を見に行く、西行が出て花を見せる。
すると桜花の精が現れて西行と花の仏心について問答するのである。
本来は長歌物であったが、《八重霞》《残月》(あるいは《越後獅子》《残月》)とともに、シマの三つ物または芸子三つ物といわれる派手な手事物の代表曲の一つと扱われるようになった曲である。
歌詞
九重(ここのえ)に、咲けども花の八重桜、幾代の春を重ぬらん。
然(しか)るに花の名高きは、先づ初花を急ぐなる近衛(このえ)殿の糸桜。
見渡せば柳桜をこき交(まぜ)て、都は春の錦燦爛(さんらん)たり。
千本(ちもと)の桜を植ゑ置き、其の色を所の名に見する。
千本(せんぼん)の花盛り、雲路や雪に残るらん。
毘沙門堂(びしゃもんどう)の花盛り、四王天(しおうてん)の栄華も、これには如何で勝るべき。
上なる黒谷、下河原、昔遍昭僧正(へんじょうそうじょう)の、浮世を厭(いと)ひし華頂山(かちょうざん)。
鷲(わし)の御山の花の色。
枯れにし鶴の林まで、思ひ知られて哀(あわ)れなり。
清水寺(せいすいじ)の地主(じしゅ)の花、松吹く風の音羽山(おとわやま)。
ここは又嵐山。 戸無瀬(となせ)に落つる滝津波までも。
花は大井川、井堰(いせき)に雪やかかるらん。
通釈
九重の都に咲いても、八重の桜、どのくらい春を重ねたことであろう。
花の名所はまず、永和4年頃、足利義満が近衛道嗣(このえみちつぐ)邸の枝垂桜(糸桜)を所望して、室町御所に移植したと伝えられる桜で、京都屈指の名花である。
見渡せば柳の緑に色添えて、京都の桜は春の錦といわれるほどのきらびやかに織りなしたようである。
千本もの多くの桜を植え、その美しさをそのまま所の名にあらわした千本通りの花盛りは、雲路を辿るや雪中を行くようである。
毘沙門堂の花盛りは天上の栄華もこれに勝るとは思えない。
黒谷や下河原の桜の名所や、遍昭僧正が憂き世を逃れて住んだ所も花頂山。
鷲の御山の花を見ては、釈迦が説法した印度(インド)の鷲霊山(りょうじゅせん)の有様や、釈迦入滅の際の鶴の林のことまでが思いしのばれて、無常の感を起こす。
清水寺の地主の桜、松風の吹く音のする音羽山、またその近所にある嵐山、戸無瀬に落ちる滝の波にも、桜の花びらが多く散り浮いていて、大井川の井堰あたりは落花の雪が、降り積もったように見えることである。
箏曲演奏家 福田恭子