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山口巌の生涯ー箏曲界に与えた影響とその業績ー(第一章 第二節)

第二節 山口巌の家族

以下の図は、山口巌の父母から子息・息女までの家系図である。山口の父母は情報が少なく、この家系図でしか読み取ることしかできなかった。この家系図は、『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』(35頁)を参考にしたものである。

図4 山口巌一家の家系図

図4 山口巌一家の家系図

ここでは、山口琴栄の『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』を参考に、山口巌の息女の紹介をする。

① 長男 はじめ

明治三十四年(1901)四月十三日に生まれた。十才の時、家族とともに東京へ転居する。東京第一中学卒業後、海軍兵学校五十期卒業、その後、海軍で少佐となり、大本営海軍報道部員、海軍軍事普及部幹事として海軍省で報道事務、軍事映画製作を担当した。 

軍事映画の「黄浦江」「上海軍戦隊」「噫南郷小差」の撮影指導、「軍艦旗に栄光あれ」については総指揮にあたっていた人物であった。

また、以下の記事は、映画製作の撮影を終えて帰ってきた山口少佐を取り上げた記事である。

昭和十二年七月十日(日曜日) 讀売新聞

昭和十二年七月十日(日曜日)讀売新聞 第二萬二千七十一號(二頁)(『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』(12頁)より)

昭和十四年(1939)五月に、主催は海軍協会、海洋美術会、後援は海軍省、賛助は朝日新聞の海洋美術展覧会が日本橋三越で開催され、その審査委員を、祝原不知名海軍少将と共に務めた。同年十二月には、海軍省から「補舞鶴鎮守府副官参謀 海軍中佐 山口肇」と発表されている。

昭和十五年(1940)に、父巌の母校京都盲唖院で講演を行い、同じ頃華道池坊家、茶道千家でも講演を行った。翌十六年(1941)十二月に、佐世保軍艦「北上」に勤務し、その後、「横須賀聯合艦隊司令部副官兼参謀」に任じられた。その当時戦死した山本五十六大将の後任、古賀峰一聯合戦隊司令長官の副官兼参謀として、昭和十九年三月三十一日、四十四歳の時、パラオ諸島コロール島より飛び立った水上機上で戦死した。

最終階級は、「海軍大佐正五位勲三等」であった。法名は義勲院釋功存。

以下は、大正十一年(1922)一月二十六日に肇の遠洋航海を横須賀で見送る際の巌が歌った和歌である。

かれるれと 思ひきりなき 親ごころ
  出雲の船の 見えずなるまで (出雲は軍艦)

② 次男 瀧響ろうきょう 本名:又次またじ

明治三十九年(1906)二月十八日京都市上京区猪之熊通り椹木町で生まれる。

小学校を卒業後、三越の呉服店に勤め、商業の方面へ進んでいた。その頃より、暇のあるときには父巌に頼み、好んでいた音曲の教えを受けたといわれている。技術が進むにつれて、勤めていた呉服店を辞職し、十七歳の春より、本格的に、父巌の門下生として、柳川流の三絃および、腕崎流胡弓の稽古をはじめ、技術の向上に研鑽を積んだ。そして、生涯を芸の道に専念し、巌と同じくして、柳川流の三絃、腕崎流胡弓の名人として、世の中に広く知られていた。また巌のほかに、宇田川作童 にも教えを受けていたことが記録に残っている。

瀧響の初演は大正十四年(1925)六月七日東京丸の内、報知講堂において行われた演奏会である。父巌が箏、三絃は杵屋五三郎、瀧響の三人で《四つの民》を演奏し、人々から高く評価された。

翌年大正十五年(1926)四月二十二日には柳川流の三絃曲《四段砧》が放送された。演奏者は、巌が三絃三下り、三絃本調子が山口又次(瀧響)、小林鉦治郎(杵屋五三郎)であった。この記録に関しては、第二章第四節ラジオ放送での活躍において後述する。

大正十五年(1926)の十二月二十六日には、芸名を「瀧響」と名乗り、四ツ谷・美山倶楽部おいて、【名披露演奏会】が開催されることになっていた。しかしながら、その前日に大正天皇が崩御し、音曲などの華美な行事を慎まなければならなくなったため、翌年の昭和二年(1927)に盛大に名披露演奏を行うこととなった。この【名披露演奏会】については、第四章第二節(四)【山口瀧響 名披露演奏会】において、その演奏の詳細を記した。

この【名披露演奏会】を開催した後から、山口瀧響として、父巌と妹琴栄とともに、演奏会やラジオ放送などの演奏活動で活躍し、弟子の育成にも努め、父巌の楽曲の楽譜の作成なども行った。瀧響が好んで演奏していた曲は、《八段替手》《四段砧》《藤戸》《狐会替手》《四つの民》《おちや乳人》《さらし》であった。

さらに、瀧響は、芸の道に専心する一方で、人物画、肖像画などの画筆をとり、箏曲界の師の肖像を描いていた。

昭和五十六年(1981)二月二十六日の巌の正月命日に逝去し、享年七十六才であった。法名は覚了。

瀧響は、箏曲界の古典を代表する諸検校を敬慕し、父巌のように、芸の道にただひたむきに精進し、父のよき後継者として生涯を過ごした人物であった。

③ 三男 三男みつお

三男の三男みつおは、明治四十二年一月十八日に生まれ、父巌の東京移転とともに、東京で育てられた。しかし、わずか六歳という幼い頃から、能楽の金剛流の金剛右京宗家に見いだされ、金剛流宗家に引き取られ、内弟子に入った。

大正四年(1915)の大正天皇御即位の御大礼の際には、父巌が東京音楽学校の記念演奏会の際に《御代万歳》を作曲したのに対し、三男は両陛下の御前で、《橋弁慶》という演目の、弁慶は金剛流の師が務め、三男は牛若という大役を務めたというほど、金剛流の能楽界のなかでは、天才児と称賛されていた人物だったそうである。

幼き頃から家を出て、能楽の世界で苦しい修行を行っていた三男も、八、九歳の頃から、代稽古を任されるようになった。その際、謡本のことで聞かれても三男自身が字を読めなかったので、学校に通いたいと申し出たが、師に断られ続けていた。しかし、学校に通いたい一心だった三男は、大正九年(1920)六月、十三歳の時、ついに能を辞めるため、金剛流の稽古場から一人で抜け出した。そのときから、大正十三年(1924)五月十四日のわずか十六歳で急逝するまでの三年間は、念願叶って学校に通っていたそうである。厳しい稽古場から抜け出し、能を辞めた三男であったが、このとき、天才とよばれた三男を稽古場に返してほしいという金剛流宗家と父巌のやり取りが、『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』の三男の紹介部分で記されている。これは、琴栄が兄三男の思い出を綴った文章であるが、もとは能の金剛流の雑誌『金剛』「山口光夫少年の生涯」に掲載されている記事である。

お稽古がちょっとでも覚えられなかったら、先生と奥様に叱られたり、五寸釘の打ってある柱に背中を打ち付けられたりしてできた傷だと言います。それまでそんな事は一言も申しませんでしたが、家に帰って来て行水をさせた事からそれが分かったのです。昔はこんな厳しい修行があったのですね。
父は人一倍子煩悩で、「自分も大勢の弟子を預かっているが、まだ弟子に手を振り上げるような真似はした事がない。それに学校へもやってもらえぬようなら帰すことは出来ん」

この記事から、並大抵ではない、厳しい修行に耐えてきた三男に対し、子煩悩の父が能の世界に戻さないくらい、三男の苦しさが伝わったうえでの決断だったことがうかがえる。 

以下の歌は、三男が亡くなった際、父巌が歌った和歌である。

牛若に おくれし弁慶 わたりゆく
  弥陀がつくりし 悟道の橋

④ 長女 琴栄ことえ

大正二年(1913) 五月十一日に東京市神田猿楽町二丁目八番地で生まれ、三歳の時から父巌に箏の教えを受けていた。小学校へ上がる際、巌が多忙であったため、琴栄に稽古ができなかったという。このときの話が以下のようにある。

お母様が、「お父さんが今日は一本つけますから琴栄に稽古してやっておくれやす」とたのんで下さった由。検校の前に座り検校がひき始められると、すらすらと最後までついてひく事が出来、何の曲か分からないまま最後までついてひく事もあったとか、毎日の聞き覚えで楽譜のない頃であったが暗記には苦労された事がないそうである。

巌が演奏活動や教育活動で忙しく過ごしているなか、琴栄は稽古を受けられる機会が少なかったにもかかわらず、毎日の聞き覚えによる暗記に長け、演奏も難なくこなすというこの話から、琴栄もまた、父巌や、兄瀧響のように芸達者であったことがうかがえる。

琴栄は、大正十四年(1925)には、箏曲の教授を開始した。 そして、大正十五年(1926)九月九日、十三歳のとき、ラジオ放送東京JOAKにおいて演奏の初放送を行った。曲は《石橋》で、三絃は父巌、三絃替手を兄瀧響、箏を琴栄が担当した。この琴栄のラジオ放送での初放送は、東京朝日新聞、東京日々新聞、読売新聞、都新聞、ラジオ新聞などの各新聞が写真入りの記事で、琴栄は「天才児」と大きく報じた。 「日刊ラジオ新聞」には、《石橋》放送の際の記事がある。そこには、巌と又次(瀧響)に加え、ラジオ放送初演であった琴栄についての事が以下のように記事に書かれていた。

山口巌師と、令息又次氏は生田流の重鎮として、従来度々放送されてゐるので今更紹介する迄もないが、令嬢琴栄さんは今日がはじめての放送である。父君のお仕込で、さだめししっかりしたお腕前と非常に期待される。

この初放送の後、父巌と兄瀧響、また巌の門人達と、たびたびラジオ放送で演奏され、そのたびに新聞の記事になり、「放送ではおなじみの山口一家」と話題になっていた。

放送された主な曲は、《石橋》《高千穂》《九段》《四つの民》《御山獅子》《聖の御代》《老の友》《狐会》《春重ね》《鉄輪》《八段》《四段砧》《浮舟話》などであった。

昭和四年(1929)、琴栄が十六歳だった際に、父巌と兄瀧響が京都へ帰ることとなったが、一人東京に残り、父と兄に代わり、東京の山口門弟の稽古をしていたそうである。東京で生活を送りながらも、大阪JOBK、京都JOOKのラジオ放送のため、帰ることもあった。また、琴栄自身も昭和五年(1930)十一月に京都へ帰ることとなったが、東京JOAKの依頼によって京都より一家そろって上京放送したこともあり、そのときの放送曲は《老の友》《四季の寿》であった。

昭和七年(1932)九月十五日に、『楽界春秋』という新聞で紹介され、昭和三十六年(1961)九月七日の夕刊京「お師匠はん」という名目で記事に取り上げられた。

昭和三十六年九月七日(木曜日)夕刊京都 第五千五百五十九號(六頁)の「お師匠はん」の記事は以下のようにある。

お師匠はん 山口琴栄
母上(34才)と琴栄師

琴栄と母ゆき(三十四歳)の写真
(『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』(28頁)より)

琴栄は、昭和二十四年(1949)より京都當道会の職格試験の試験委員となり、職格者の技術の向上のため、厳しくも慈愛をもって実技試験にあたっていた。昭和二十五年(1950)より京都當道会評議員を経て理事になり、昭和五十七年(1982)より理事長を務めた。

琴栄は、父巌の十七回忌、昭和二十八年(1953)十一月八日、その後、二十五回忌、五十回忌の年には、巌の追善演奏会を開催した。そして、京都市北区紫野石竜町二十において自身の琴栄会を主催していた。また、琴栄会の紋は父巌の発明である蕗柱である。

⑤ 五男 寿一としかず

大正四年(1915)十二月一日に生まれ、幼い時から父巌が弟子へ稽古をつけているなかで育ったため、聞き覚えでお箏を弾くことができたそうである。しかしながら、父のように芸の道には進まず、箏は趣味にとどめ、京都新聞部図案部に入社し、図案家として過ごしていた。父巌の五十回忌演奏会の際、追善曲《高千穂》を演奏したほどの箏を弾くほどの実力があったそうである。

四男の三四郎(さんしろう)は、生後間もなく亡くなっている。次女の歌子(うたこ)については、『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』に記載のなかったため、どのような人物だったかは不明である。

巌の子息・息女の五人中二人、瀧響と琴栄が巌の教えを受け続け、芸の道を継いだ。

琴栄は、京都や姫路において、教授を続けていたが、その琴栄に芸を習い、山口の芸統を受け継いだ門人は多い。この門人のなかで、後世の指導に努めている演奏家の一人に大阪の伊藤志野氏が、現在も健在である。

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