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山口巌の生涯ー箏曲界に与えた影響とその業績ー(第一章 第三節)

第三節 山口巌に関わった人物

第三節は、山口巌の生涯において、山口と関わった人物のなかで、特に関わりの深かった人物について紹介し、その関係性について述べていく。箏曲における師弟関係について山口の師である古川瀧斎をはじめ、山口が主宰していた「源奏会」の弟子、そして山口と同時期に京都盲唖院や東京音楽学校で活躍した人物を取り上げる。

(一) 師古川瀧斎について

山口の箏曲の師は古川瀧斎である。古川は、天保十一年(1840)に生まれ、享年六十八歳で明治四十一年(1908)十一月四日に逝去した。墓所は眞如堂内、喜運院である。

山口は、京都市立盲唖院において助手を務めていたとき、古川が現職のままで亡くなった後、古川が勤めていた盲唖院の音曲の教師の職を受け継ぎ、音曲教育に従事した。

古川の琵琶の習得は不明であるが、当道の身分として「勾当」であったとされている。

三絃は「富士岡検校(師堂)」より、箏は「岸崎検校(妙門)」から伝承されたといわれている。明治十二年(1879)に京都において盲学校で本格的な箏・三絃の教育が計画され、古川は、京都の屈指の演奏家として盲唖院用掛に採用された。

古川の時代に、週一時間「唱歌の時間」が設けられ、地歌や箏歌の、歌のみの授業が素歌い、無伴奏で行われていた。歌のよい節や技巧を崩さないよう、また正確に保つようにと授業に加えられたものであった。それまで弾き歌いで伝え教えられてきた地歌箏曲を、新しい教授法で取り入れたものであった。

古川は、明治十四年(1881)十一月、盲唖院に音楽教育が創始されて以来、亡くなるまでの二十七年間もの間、日本の音楽教育の指導に従事していた。古川の作曲には、《老の双葉》《民に余する祝》と、山口が箏の手付を加えた《春重ね》《面影》などの作品がある。

また、京都に当道慈善会が創立された際に、その事業の一つとして、明治三十八年(1905)より、職屋敷に行われた制度から、金銭による階級を授ける制度が行われた。

第一回の階級授与に際して、「伊原邦貴」のみはもともと検校であるので、検校に登官しているが、古川は「権検校」を受け即日「検校」に昇進している記録がある。 門下生は山口以外に、渡辺正之、中石芳次郎、江良千代がいる。

(二) 坂本きくについて

山口は、前述した師の古川以外に、坂本きくという人物のもとへよく稽古に行っていたそうである。山口が十七歳のときに、坂本はすでに晩年の頃で、七十二歳であった。その後、七十七歳で逝去している。坂本の生没年は定かではないが、山口が十七歳の時に、七十二歳であったということは、その年は明治十七年(1884)であるので、坂本が生まれたのは、文化九年(1812)、亡くなったのは、明治十九年(1886)頃と考えられる。

山口は、明治二十四年(1891)にある演奏会で坂本きくの《こんかい》の三絃演奏を聴いたことがあったそうである。当時自分の師匠以外の所へ習いに行くという事は特に疎まれていたが、盲唖院で師の古川は、気が広い人であったそうで、その演奏を聞いた後に、「坂本の三味線が本當の三味線だ、あの人は全くうまい人だから精出して寄せて貰ふがいゝ」と言われたので、山口が坂本きくに習いに行くきっかけとなったのである。

坂本きくは、幾山検校の門人でもあり、三味線の音色も響きのよい名手であった。

山口が十八歳の頃、盲唖院の卒業試験の際には、幾山検校が試験長、師古川をはじめ、その道の老練家中老たち大勢が審査員であった。このときの試験曲は《九段》であり、松見栄次という芸達者な審査員が試験のその場で、はじめて合奏を行うという試験方式であり、坂本きくはこのとき、山口の卒業試験を一番前で一生懸命聴いてくれていたそうである。

また、三絃の作曲で有名な石川勾当は、坂本きくと家が近かったこともあり、よく遊びにきていたそうである。幾山検校を師匠とし、作曲の天才といわれた石川勾当との関わりもあった坂本は、師幾山検校の芸をはじめ、名人との深い関係があった人物だったということが考えられる。

(三) 弟子について

山口巌の門下生については、詳細に記述している資料はないが、『三曲』には、山口が主催する「源奏会」の門人の名が以下のように記されている。

謹而新年を奉賀候
山口門人
為廣菜蕗子
  赤坂區青山南超五ノ八四

謹而新年を奉賀候
山口門人
前田苔巌
  東京市蒲田町御園二五〇番

謹賀新年 源奏会
東京市麹町區土手三番町二番地
本部 山口巌 山口瀧響 山口琴栄 宇田川壽惠子 為廣菜蕗子 
加藤久子 森静子 山岡敏子 奥田俊一 其他一同

以上のような記載をみると、門人には、宇田川壽惠子 為廣菜蕗子 加藤久子 森静子 山岡敏子 奥田俊一 前田苔巌の七名の名前はあるが、その他一同という記述からそのほかにもまだ門人がいたことがわかる。山口に師事し、巌の名を授けられている前田苔巌 は、東京音楽学校を卒業し、山口と同じく、同学校で教授した。前田は、後に芸名の苔巌を改め、前田白秋と名乗った。前田の息女は川瀬白秋であり、箏曲界でも名の知られる人物である。

また、前田苔巌と同じく、師の巌の名がつく人物が、山口邦巌である。山口邦巌は、『三曲』の「源奏会」の門人のなかには、名前が記載されていないが、後述する第二章第四節ラジオ放送での活躍において、巌の門人とともにラジオ放送で演奏した記録が残っていることを記した。そのため、この山口邦厳も「源奏会」のなかの門人の一人であり、巌の名を受けたのではないかと考えられる。

山口が主宰した「源奏会」は、京都に帰郷してから、息女の琴栄が受け継いでいることは前述したとおりであるが、東京にいた頃は、これらの門人も琴栄が引き継いだのではないかと考えられる。

山口一家が帰郷した後も、巌は箏曲の教授を行っていたそうであるが、受け継いだ琴栄の門下生は現在も健在であり、山口の芸を今でも残し続け、伝えている一人が大阪の伊藤志野氏である。

(四) 京都盲唖院時代に同時期で活躍した人物

ここでは、京都盲唖院に初めて音曲科が設けられた際、山口と同時期に入学し、またその後も、盲唖院をはじめ、京都で演奏家として活躍した人物で、山口と特に関わりの深かったとされる人物について挙げていく。

まず、盲唖院で明治十七年(1884)より、弦歌の指導を受けもち、盲唖院が、財政困難となった明治二十二年(1889)三月から、音曲科商議員や協賛員として、財政復興に協力していた「田中きぬ」を取り上げる。

また、山口と同じ年に入学した「渡辺正太郎(正之)」と、盲唖院出身の「中石芳次郎(芳斎)」「江良千代」の三人を取り上げ、この三人は、いずれも山口と同じく古川瀧斎の弟子である。

① 田中きぬ

生まれは不明だが、大正六年(1917)七月十六日に逝去し、墓所は黒谷の実報寺である。祇園甲部の地歌の師匠であった「守山検校(中井検校)」の弟子であり、祇園に妓籍があった。「幾山検校」にも習ったといわれているが、歌ものや繁太夫が得意であり、歌の節では並ぶものはいないといわれた人である。

明治十七年(1884)には、盲唖院に嘱託となり、弦歌教育を担当し、明治二十二年(1889)三月、盲唖院の財政貧窮となった際に、音曲科商議員や協賛員として盲唖院の財政復興のために従事していた人物である。明治三十五年頃には古川瀧斎、田中きぬ、山口巌のこの三人が中心となり、音曲科の教育に献身していた。

② 古川(検校)瀧斎の弟子、渡辺正太郎(正之)

渡辺正之は、明治五年(1872)一月に、醍醐屋兵衛の一人息子として生まれ、三歳で失明したが、家庭的にも経済的にも恵まれていた。渡辺は、三絃は母より学び、京地歌や、浄瑠璃を好んでいた。十一歳のときに、山口と同学年として、盲唖院に初めて音曲科が設けられた際に入学した。端歌・繁太夫は田中きぬに習い、明治二十年(1887)四月に専修音曲科第五期を卒業した。

古川の指導で柳川流三味線を修行し、明治二十八年(1895)には、箏曲の秘伝を許され、同三十八年(1905)には、柳川三味線の奥義を伝えられている。同年、当道慈善会による階級の授与が行われ、「衆分」になり、明治四十年(1907)には「検校」を受けた。

大正六年(1917)には、當道慈善会の理事になり、大正十一年に創立した京都當道会の理事を務めた。古川が亡くなってからは、山口と同じく、盲唖院に嘱託され、大正三年(1914)に助教諭、同十二年(1923)に教諭となり、二十四年間母校盲唖院での音曲教育を努めた。 渡辺は、箏はあまり得意ではなく、三味線の妙手といわれている。

『盲啞人物伝』 には渡辺について、以下のように記されている。

卒業後も古川教諭にかあいがられ、諸種の會にはいつも連れられ、その都度立派にひき終るので、師匠の自慢する所となり、十九歳で盛大な床開きの會を開く。その頃から、やうやく人の注目する所となり、幾山検校からも養子にとの懇望もあつたが、一人むすこであるからと斷る。

この記録から、渡辺は、師の古川をはじめ、京都盲唖院の教師であった幾山検校からも養子の要望があるほど、技術の優れた人物であったことがわかる。

昭和二年(1927)には、京都を代表する演奏家として、東京放送局より招かれ演奏を行った。昭和六年(1931)二月に没し、京都祇園花見小路の自宅で病歿、六十歳であった。墓所は黒谷山内である。

③ 中石芳次郎(芳斎)と江良千代(千代子)

中石芳次郎は、慶応三年(1867)八月に生まれ、昭和七年(1932)八月二十八日に逝去した。中石の墓所は不明である。

山口と同じく盲唖院出身で、古川瀧斎の指導で、柳川流三味線を受け継ぎ、その後も柳川流社三味線組歌を伝承していた。当道慈善会の階級において、明治四十一年(1908)に、検校に登官し、大正六年(1917)には理事となった。胡弓が巧みであった。

江良千代は、明治七年(1874)に生まれ、盲唖院卒業後も古川瀧斎に師事していた。また、盲唖院の教授も務め、昭和十九年十月五日に逝去する。

三味線の撥は、細撥の人々から非難されながらも、生涯、太撥を使い続け、その演奏は美声かつ、妙技であったそうである。江良千代に関する詳細な情報は少ないが、中石、江良は山口と同様に京都盲唖院出身であり、古川瀧斎の門人として、柳川流三味線の修行とともに、その技を伝承した。

第三章第二節(一)京都盲唖院時代の演奏活動で取り上げたが、山口の京都盲唖院時代の演奏記録には、ここで述べた渡辺正太郎、中石芳次郎、江良千代との演奏の機会も多くみられた。この演奏活動の記録の詳細については、第三章第二節(一)京都盲唖院時代の演奏活動で後述する。

(五) 東京音楽学校時代に同時期で活躍した人物

ここでは山口巌が東京音楽学校で教鞭をとっていた頃、同じ職に就き、活躍していた生田流箏曲の松阪春栄と、東京音楽学校時代に山田流の箏曲科として活躍していた、今井慶松を取り上げる。

① 松阪春栄

安政元年(1854)一月八日に京都市下京区四条通烏丸東入る長刀鉾町で、角谷筆を商う香林堂十二代目山中藤兵衛の長男として生まれ、六歳の時天然痘のため失明した。

大正九年(1920)四月二日に享年六十七歳で逝去し、墓所は黒谷山内永運院である。都名は「春栄一」で、本名は「山中信次郎」である。松阪の姓は、師である二世松崎検校(孝謙一)より授かったものという。門人は、井上福栄、津田青寛などであり、多くの門人を養成したそうである。

明治十四年(1881)、盲唖院の音曲教育の顧問となり、その後、明治四十四年(1911)~大正八年(1919)の逝去する一年前まで、山口と同年に東京音楽学校の生田流箏曲の顧問となる。

京都に生まれ、京都盲唖院から東京音楽学校の生田流箏曲顧問となるのは、山口巌と、この松阪春栄である。また教育だけでなく、地歌・箏曲の伝承や保存、普及活動のために「琴優社」・「清聚社」の創立に参加している。明治四十年頃より當道慈善会の理事を務め、多くの男性盲人箏曲家を送り出した。この松阪の尽力で、地歌・箏曲の発展に大きな成果をあげたといえる。

そして松阪のもっとも大きな業績は、替手手付曲をはじめ多くの楽曲を残し、その作品は現在にも受け継がれ、多く演奏されていることである。松阪の楽曲と手付作品は以下のようにある。

・吉沢検校作曲の楽曲への手付(古今組) 
《春の曲》(手事・替手)、《夏の曲》(手事・替手)、《秋の曲》(手事・替手)
《冬の曲》(手事・替手)、《千鳥の曲》(手事・替手)

・西山徳茂都作曲の楽曲への手付
《秋の言の葉》(後歌補作)

・高野茂作曲の楽曲への手付
《大内山》(手事及後歌の合の手を補作)

・松阪春栄作曲 
以下の楽曲で(  )内は作曲年であるが、作曲年が記載されていない楽曲も含む。
《雪達磨》《楓の花》(明治二十六年)、《春の栄》(明治三十七年)、《還る春》(大正二年)、《扇の夢》(大正三年)、《若緑》(大正四年)
《杣山》、《墨絵の芦》
《墨絵の芦》は津田青寛の箏手付である。

② 今井慶松(新太郎)

今井慶松は、山田流箏曲の演奏家であり、山口と同じ時期に、東京音楽学校で山田流箏曲の約三十年教授を務めていた人物である。

明治四年(1871)三月二十五日に横浜市境町一丁目で生まれ、四歳で失明、八歳で箏曲の師範である渥美千代春に師事し、箏曲を学んだ。十五歳のとき東京に出て、三世山勢松韻に弟子入りし、修行を積んだ。上達も早く、十七歳で師より「慶松」の名を与えられた。

明治三十一年(1898)年より東京音楽学校の助教授となり、また女子学習院の教授、日本女子大学の講師も兼ねながら箏曲の教授に従事していた。日本三曲協会や、山田流箏曲協会の会長を務め、昭和十七年(1942)七月には、邦楽界で初めての帝国芸術院会員となった。

また作曲では、多くの曲を残しており、《野辺の春》《旅順閉塞隊》《四季の調》《大和心》《平和の光》《隅田川》《水新さらし》《鶴寿千歳》などがある。

随筆もよく行い、自伝に『松の吹き寄』という本をのこしている。昭和二十二年(1947)七月二十一日に東京で逝去した。

山口の楽曲に《御代万歳》という曲があるが、この曲は今井の楽曲にも同じ曲名で残っている。これは、大正四年(1915)十二月二十三日、奏楽堂において、大正天皇即位礼を祝い、【御大礼奉祝音楽演奏会】が開催された際に、《御代万歳》という曲を、同じ歌詞で、山田流と生田流とそれぞれで作曲されたためである。同じく、山口とともに、東京音楽学校で、同じ歌詞に手付をした作品は昭和三年(1928)に作曲された《聖の御代》という曲である。この《御代万歳》と《聖の御代》については後述する。

さらに、《御代万歳》のほかにも、今井の作品には、皇室関係の慶事記念の作曲作品が多い。大正十三年(1924)、皇太子ご成婚の時、《長久の春》を作曲した。

大正四年(1915)には、《御代の脈》《御代の栄》、同年の《御代の寿》は、大正天皇の銀婚式の際の奉祝曲、同年皇孫照宮誕生に際し、《御生れの喜び》を作曲した。また、昭和三年(1928)の即位大典の際、《十正の松》、昭和八年皇太子誕生の際に《百嗣の御子》を作曲し、皇室に関わる多くの慶事を祝う曲を作曲している。

今井が東京音楽学校に勤めていた頃、同校では、箏曲の楽譜についての調査や作譜などが行われるようになり、今井の演奏を、当時講師であった村井松泉が作譜した山田流初の弦名譜は『箏のかがみ』である。今井は、山口より先に、東京音楽学校の箏曲の教授を務めていたが、山口がはじめての生田流の講師として、同学校に任命されたのちには、山田流と生田流でたがいに活躍し、それぞれ、箏曲の普及活動の先駆者として、関わりが深かったのではないかと考えられる。

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