山口巌の生涯ー箏曲界に与えた影響とその業績ー(第二章 第三節)
第三節 点字楽譜制作・楽譜校閲について
視覚障害者のための点字は、文政十二年(1829)に、フランスの盲人ルイ・ブライユによって六点式点字が発明された。ブライユの点字の発案のもととなったのは、彼自身がオルガン奏者であり、音楽教師であったことから、点字楽譜を得るためだったと伝えられている。ブライユ発案の点字楽譜のシステムや基本的な記号は、万国共通のものとして、欧米やアジア諸国に普及している。また日本に初めて点字が伝えられたのは、明治十年代であり、明治二十三年(1890)に東京盲学校教諭の石倉倉次が日本の点字を翻案し、明治二十六年(1893)に、東京盲学校鍼按科出身の佐藤国蔵が、「国民唱歌集」(小山作之助編)を点訳している。
京都府盲唖院時代において、点字楽譜の研究や指導をはじめたのは、山口巌であった。山口は、明治四十年頃、音曲科の教員であった時代に、点字楽譜を考案している。
山口は、目が見えない盲人だからこそ、点字楽譜の作成を自ら発案し、音曲の指導を、口伝で伝えることだけでなく、盲人への音曲教育のため、また後世への伝承のために、箏曲の楽曲を楽譜として残すことに尽力したのだと考えられる。山口が、点字楽譜に取り組んだ記録は少なく、点字楽譜は残っていないため明確ではないが、当時の箏・三絃の教授に役立ったことが考えられる。
明治四十二年(1909)には、日本最初の点字楽譜の解説書として、「訓盲楽譜」が発行された。当時東洋音楽学校校長と東京盲学校の講師を兼任していた鈴木米次郎が、点字楽譜を紹介した外国版を翻訳したものである。
また、大正八年(1919)に、京都府盲唖院の音楽科を卒業し、点字楽譜の研究家であった西村正芳(本名:常次郎)は、箏曲の古典から、新日本音楽に至るまで約百曲をブライユのシステムから採譜した。これは「箏曲楽譜」(全五巻)としてまとめられている。 さらに、この「箏曲楽譜」は、京都府立盲学校において活用され、点字楽譜の必要性を説き、多くの人々に指導したと伝えられている。
京都盲唖院において、山口の点字楽譜の研究がきっかけとなり、のちに箏曲や地歌の点字楽譜が多く残されることとなったのではないかと考えられる。
山口の点字楽譜の製作について書かれている新聞記事が残っている。記事は、「大正十五年(1926)九月九日(木曜日)讀賣新聞 第一万七千七百八十二號(十頁)」に掲載されている山口一家のラジオ放送時の記録とともに掲載されていた。
記事の見出しには、「またまた點字の三味線曲譜を山口巖氏が考案」とある。以下は、その記事の内容である。
今ばん生田流三曲石橋を放送する山口巖氏はラヂオでは再三御なじみの東都生田流界の重鎮であり且つ又生田流古曲唯一の手として有名な人である。尚氏の隠れたる功績は数年の辛酸を嘗めて昨年漸く盲人の為に英字の箏曲楽譜を完成した事である氏の研究的態度には此世界の人にしては珍しく熱心なものがあつて目下は又不安な盲人のための三味線曲譜を考案中である、替手の山口又次も同氏の令息で之れまた放送ではお馴染みの方であるが、同じく愛娘の琴栄さん(一四)は之れが處女放送で、今年番町小学校を卒業し、今は四歳の時から手づけた巖氏直系の道に専心してゐるが此の若い女の身ながら既に奥傳を極めた天才児である、六づかしい生田本流の古曲を父巖氏の妙手に合わせてゐるところは實に美事なことである
この新聞記事の見出し、「またまた點字の三味線曲譜を山口巖氏が考案」の記事内容には、盲人のために、大正十四年(1925)に英字の箏曲楽譜を完成したとある。また、同じく盲人のために、点字の三味線曲の楽譜を考案中と書かれている。
山口が考案したという箏曲楽譜や、三味線楽譜の現物は残っていないため不明であるが、この新聞記事から、盲人のための楽譜を考案したことは、盲人の演奏家のために、大きく貢献したといえる。
また、山口は点字楽譜だけでなく、箏曲楽譜の校閲者となり、山口の名が楽譜に残っているものが多く残っている。箏曲の楽譜が出版されはじめた頃の二大会社であった「家庭音楽会」と「博信堂」から出版されている楽譜がある。家庭音楽会の楽譜は、現在も取り扱いがあり、現行の楽譜として使用されているが、博信堂の楽譜は、今では廃版となっている。山口は、この二つの楽譜出版社の校閲者となったことでも有名である。
しかしながら、伊藤氏によると、山口自身が、校閲を行っていたわけではないということを、山口琴栄から伝えられたそうである。
そして、中井猛の「地唄採譜の思い出」にも、地歌箏曲の楽譜発行について、家庭音楽会の楽譜について詳しく説明されている。
表紙には校閲者の立派な検校方の名前が書かれています、古典は主に京都の山口巌検校と大阪の菊原琴治検校。明治新曲は作曲者に直接依頼しているようで、楯山検校・菊原検校・武内検校・菊武検と錚々たるお顔ぶれがそろっておりますが、たしかに家庭の方は依頼したのでしょうが、受けた方は本当に丁寧に調べたのかどうか、これはどうも疑問です。もっともあの頃は、今のように重箱の隅をつつくようなことをしなくても、それでよかった時代ですから、校閲者の名前も半分は看板のようなつもりであったのでしょう。
と書かれている。
楽譜に著名な演奏家の名前を記載することで、出版社や、楽譜に箔をつけるという意味も込められていたのではないかと考えられる。
以下の契約書に、山口が校閲者となった時の内容が記されている。
家庭音楽会の創設者は、坂本五郎、博信堂の創設者は高橋市作という人物であった。高橋市作は、明治十四年(1881)に岐阜県揖斐郡池田の造り酒屋の次男として生まれた。
高橋は、二十歳で上京し、その後大学を中退して、神田で古本屋の店員をしているときに、「西洋楽器には楽譜というものがあるのに、なぜ日本楽器の箏には楽譜が無いのだろう」と思い、楽譜製作の要望のため、何度も今井慶松 のもとを訪ねたそうである。
その熱意が伝わり、山田流では、今井の高弟である村田松泉を作譜にあたらせたという経緯がある。
生田流では、山口巌に依頼し、作譜の方は、前田白秋が担当し、京都系の楽曲から作譜が行われたそうである。
写真14の契約書の内容には、博信堂の楽譜刊行に際して、坂本五郎発行の楽譜に校閲名、高橋市作発行の楽譜に演奏名を記載するように書かれている。この契約書から、山口巌という名を楽譜に掲載するとの契約だったということを読み取ることができる。
口伝で伝わってきた箏曲が、楽譜に起こされるようになり、出版されはじめた頃の時代に、箏曲のなかでもその当時有名であった、楽譜出版社に山口の名を記載されるということは、山口が東京において、箏曲演奏家としてそれだけ著名な人物であったことがわかる。