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山口巌の生涯ー箏曲界に与えた影響とその業績ー(第二章 第五節)

第五節 八重崎検校追善会について

京風手事物の作曲で活躍した八重崎検校は、嘉永元年(1848)十月七日に没してから、そのお墓は誰一人省みる者もなく、無縁となっていた。しかし、藤田斗南が塚本虚童と協力し、山口巌の記録を辿り、捜索した結果、八重崎のお墓を発見したといわれている。八重崎検校のお墓発見において頼りとなったのは、山口巌の情報が有力であったそうで、山口がお墓の第一発見者ともいわれている。山口が発見したのは、東京から京都に帰郷した後であった。

藤田斗南と塚本虚童、山口巌の三人は、八重崎のお墓を発見後、没年から八十五年に相当する昭和七年(1932)九月十一日に、八重崎検校追善会を開催する発起人となった。この追善会は、その当時の三曲界の人々に八重崎のお墓の所在を広く知らせるとともに、八重崎の功績を後世まで残すためであったと考えられる。

追善会の日時は、昭和七年九月十一日(日)午後一時、場所は京都市上京区仁和寺街道千本西入北側、長徳院で行われた。

この追善会で献曲された曲は《四季の友》《尺八本曲》《夕顔》《茶音頭》《新青柳》《四つの民》であった。山口は、追善会の開始直後に献曲し、山口琴栄、北向静枝とともに《四季の友》を演奏した。

それまで八重崎検校のお墓を知る人も少なく、八重崎を弔う人物が存在しなかったことに対し、この追善会において献曲を行うことで、八重崎の功績を称え、没後八十五年後に霊を慰めたのである。山口が発起人の一人としてこのような追善会を行ったことは、山口自身も八重崎検校の偉業に敬意を表しており、そのうえ、八重崎の箏手付にも影響され、箏の作曲や手付に献身的に取り組んでいたことが考えられる。

以下の和歌は、山口が八重崎検校の徳を慕って歌った和歌である。

世に廣く花と榮えし八重ざきの
  香をぞ慕はぬ人とてはなし

八重崎検校の追善会の内容は、『八重崎検校追善會記念文集』にまとめられており、箏曲界における各著名な人物たちが、八重崎検校についての思い出話を綴り、掲載されている。

また、山口自身も八重崎検校についての思い出話を『八重崎検校追善會記念文集』に掲載している記事が以下のように残っている。

これは私が十六、七才の頃、高岡と言う元八十石を領して居た興力の老人が、或時坂本きくと言う三味線の妙手の家に來合して居られまして、承つたお話です。

昔京の諸司代の配下の興力衆のお邸が千本の下立蕒邉にありまして、それを俗に新屋敷と言つて居りました。處がある時新屋敷のお頭が、八重崎檢校を招待して一曲拜聽すると言う事になりましたので、當日は與力衆一同が設けの堰に集まりました。やがて八重崎檢校は本格の供揃えで立派な乗物で新屋敷へ來られました。やがて座につかれて、箏に柱を立て、徐ろに糸調べをされました。つまり調子を合わされた丈なのですが、玉を轉ばすやうな妙な音色で實に何とも言えぬ風韻があつたと言ひます。それで與力衆は聞耳を立てゝ、今に如何なる名曲が奏でられるであらうかと、鳴を静めて待ち構えて居ましたところ、檢校はもう歸ると言ってツと座を立たれ、乗物に乗つてスツと歸って仕舞いました。後に殘された與力衆はサッパリ譯がわかりません、八重崎は實は怪しからん我々を馬鹿にして居ると言ふわけで、口々す大にいきまいたのです。

この騒ぎの時、一番年長の人が一同に向つて、「八重崎檢校が今日來られたのは他に比類の無い音色を聞かしに來られたので、曲を聞かしに來られたのではない。」と言はれたので、與力衆も成程さうであるかと感心したと言う事です。

八重崎檢校の眞意は知るに由ありませんが、(或は待遇が惡かつたかも知れませんが)見識の高い方であつたには間違ひありません。

又、八重崎檢校に就ては、こんなお話もあります。或時師匠の藤崎檢校が大家から招待された時に、八重崎檢校も共に行かれました。元々お弟子筋のお座敷ですから酒肴が出て非常にもてなされました。其の時宴半に藤崎檢校は「八重霞」を三絃一挺で弾かれる事になりました。丁度其の時八重檢檢校は人から盃をさヽれてお酒を一杯注がれて、口の邊へ持つて行かうとせられた時に曲が始まつたのです。藤崎檢校は其の頃音に聞いた三絃の妙手です、八重檢検校はハツと其の方に耳が行つたかと思うと微妙な至藝に心も耳もとらわれて盃は手に持つて口の邊へ持つて行つた儘、下しもせず口にもせず、唯々無我の境にあつて聞き惚れて居られ、あのかなり長い八重霞の一曲が終るまで、盃を持つた儘で聞き入って居られたと言ふ事で、藤崎檢校の妙手もさる事ながら、名人は名人を知る八重崎檢校の態度が不用意の内に現れた處が、實に面白いと思ひます。

八重崎検校は、京風手事物の手付作曲者としてその功績は、現在に至るまで、箏曲界に大きな影響を残し、八重崎の楽曲は世の中に広く演奏されている。また、今後も京風手事物の手付者として名を残し、その楽曲が演奏され続けることであるだろう。

山口巌が発起人の一人として、八重崎検校の追善会を行ったことは、箏曲界にとって歴史に残る重要な業績であるといえる。

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