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山口巌の生涯ー箏曲界に与えた影響とその業績ー(第一章 第一節)

第一章 山口巌の経歴と生い立ち

 第一章では、本論文のテーマである、山口巌について、経歴や生い立ちを辿る。第一節では、山口の経歴を年代ごとにまとめた。ここでは、山口の出生からその生涯を終えるまでの略歴を提示した。第二章以降で、この経歴を中心として、記録に残っている資料や文献を参考にし、山口の生い立ちとともに、山口の業績を記し、その生涯を明らかにしていくこととする。

第一節 山口巌の生い立ち

 生田流の秘曲を弾き得る名手の人として人生を芸一筋に捧げ、箏曲界にさまざまな業績を残し、多くの影響を与えたとされる山口巌は、慶応三年(1867)二月二十四日に京都市下京区(現東山区)建仁寺町松原下ルに実業家山口藤吉、母歌子のもとに四男として生まれた。本名は「菊次郎」である。明治六年(1873)七歳の時、疱瘡を患い両眼失明となった。母歌子は、箏曲、三絃ともに名手として知られていた人で、巌は母より箏曲、三絃の手ほどきを受けたそうである。その後、明治十二年(1879)五月二十四日に京都府立盲学校の前身である京都府盲唖院が創立され、同時に音曲 (箏・三絃・胡弓)教育も創始された際に、盲唖院に入学し、同年同校五級を卒業した。普通教科を学びながら、音曲科では基本的に地歌・箏曲の教授が必修であったが、胡弓の教えも受けていた。

 明治十二年(1879)十一月二十七日に同校四級、明治十三年(1880)十二月二十日に同校三級卒業する。また、明治十四年(1881)十二月十五日には、成績優秀のために、二級、一級を同時に卒業した。

 入学当初の頃は、盲唖院では、看護人であった中松よし江に音曲教育を受けていたが、明治十五年以降は、古川瀧斎に教授を受けはじめる。

 明治十八年(1885)三月の専修音曲科の進級試験では、箏《七小町》、三絃《玉川》《秋空》《さらし》胡弓《磯千鳥》を演奏し、第一等賞の証書や賞与を授与された。また同年、京都盲唖院専修音曲科第四期を卒業した。この第四期生在学中に、小松宮の御前で三味線合奏による《玉川》を演奏した。

 翌十九年(1886)四月に、専修音曲科第五期を主席で卒業し、同時に、京都盲唖院の箏曲教師であった古川龍斎に弟子入りし、師古川のもとで音曲の修行を積み、研究生として母校で二年間温修した。

 明治二十年(1887)三月八日には、天皇、皇后、皇太后の三陛下京都御臨幸の際に京都御所の能舞台で、《若菜》《十段》《四つの民》《松竹梅》《西行桜》を御前演奏し、同時に記念品を授かっている。

 この御前演奏に際して、当時の記録には、以下のように残っている。

 君は今も尚その光榮を思ひ浮かべ感涙の涙に咽ぶこと屢々なりと云ふ。
 獨り君の面目のみでなく生田流全般の名誉と云うべきである。

 明治二十二年(1989)には、医師で、画家であり歌人でもある国文学者桜戸玉緒より「巌」という名を受けて、生涯その名で通している。翌年には昭憲皇太后の御前で、明治二十五年(1892)平家琵琶波多野流を藤村性禅検校より教えを受けるようになり、その後、明治二十六年(1893)にはシャム国王来日に際し、京都東本願寺において、御前演奏をした。この年以降は、京都盲唖慈善会でも活躍をみせるようになり、慈善会が催す春秋の音曲大会に多く出演している。

 明治三十三(1900)年に、古川龍斎より琴三絃両部免状 を受け、翌年三月十三日京都市長内貴甚三郎より京都盲唖院音曲科協賛員を嘱託される。

 明治四十年(1907)には、京都育児会主催の音楽會に出演し、山口の妙技に対して、京都育児会より感謝状を受けている。

写真1 明治四十年に京都育児会から受けた感謝状
写真1 明治四十年に京都育児会から受けた感謝状

写真1 明治四十年に京都育児会から受けた感謝状
(京都府立盲学校 岸博実氏所蔵の個人資料より)

 明治四十一年(1908)十一月四日、師である古川龍斎が逝去し、その後、明治四十二年(1909)四月三十日には京都市長西郷菊次郎氏より、古川後任の主任教授に任命された。翌年五月には、当道慈善会総裁正二位勲三等二篠基弘公によって検校の位となった。

 明治四十四年(1911)三月に、東京藝術大学の前身である東京音楽学校に、調査嘱託として講師に招かれ、盲唖院を辞職した。

 同年四月十八日に、山口が東京音楽学校において生田流の講師となるため、山口家一家は東京市本郷区東片町十番地に転居した。九州や大阪から上京した生田流の人は多いなか、京都から上京したのは山口のみであった。

 大正四年(1915)三月十五日東京府知事久保田政周より東京大正博覧会の功績に対し、御下賜金で作られた木杯を受領した。また、同年に、御大礼奉祝歌の作曲を命じられ、作歌吉丸一昌の《御代万歳》を作曲し、御前演奏をした。そのとき、同じ御前で、巌の子息三男も能の金剛右京師の《橋弁慶》で牛若を務め、親子で御前演奏と御前能を行ったことは称えられるべき栄誉である。

 大正九年(1920)三月三十一日には、山口の大きな業績といえる、蕗柱(巾柱)を開発し、特許第三六〇六一号をもって特許局に登録した。

 大正十四年(1925)七月十二日に、東京放送JOAKが開局し、社団法人東京放送局総裁子爵後藤新平より、東京放送局名誉技芸員に推薦され、無線電話に対する聴取料の永久免除通知を受けた。 東京放送局は翌十五年九月に創立された社団法人日本放送協会関東支部に移り、その際も、引き続き理事長、門野重九郎より放送に対する名誉技芸員を委嘱した。

 昭和二年(1927)には、東京音楽学校邦楽科の組織改正と同時に、六十歳の定年で退職した。同年四月二十日大礼記念国産振興東京博覧会審査補助は嘱託された。  

 山口は、東京音楽学校を退職した翌年に、東京の数多い子弟の指導を、長女の琴栄に託し、故郷の京都に帰ることとなった。

 昭和十二年(1937)二月二十五日午後六時、弟子の稽古を終えたのち、急に腹痛を訴え、十二時頃に医師の往診を受けるが、急性盲腸炎(急性腹膜炎ともいわれる)の診断を受け、翌日の明け方、午前三時三十分、京都市聚楽廻り松下町二において七十一歳で逝去。法名は釋道音。

写真2 山口巌が弾いていた小さい箏
巌が亡くなる前に、病床でも演奏していたという、一般的な箏より半分ほどの小さな箏。この箏は、息女の琴栄が、幼少の頃に、母のゆきが購入し、箏柱は、琴栄の兄瀧響が木の箏柱の足を削り付け替えたものである。

写真2 山口巌が弾いていた小さい箏

 山口巌のお墓は、京都の鳥辺山の墓地でも名の知られる大谷墓地にある。京都府京都市東山区五条橋東六丁目あたりに、平成六年(1994)十月、息女の琴栄によって建てられ、お墓には、琴栄以外の、父巌と母、兄弟全員家族の名前と亡くなった日付と年齢が彫られている。また、お墓の表にある家紋は山口の発明した巾柱の形の家紋が彫り込まれている。

 生田流の箏の名人であったとともに、柳川流三絃、腕崎流胡弓、波多野流平家琵琶についてもその芸を極め、その才能に長けていた。演奏家としても多くの活躍を残してきた山口は、作曲についても、明治十八年よりはじめ、記録に残っているものは曲で、箏・三絃のほかに胡弓や尺八の手付も残した。

 温厚篤実で懇切丁寧な性格で、芸に研鑽を積み、さらに語学をはじめ箏曲の歴史に対する研究もしていた山口は、常に、功労者として敬愛されていた人物であった。

(一)桜戸玉緒からの書状「名乗正授」

 山口巌の「巌」という名は、明治二十二年(1889)、「桜戸玉緒」からその名を受けている。桜戸玉緒は、文政十一年(1828)に近江の蒲生郡玉緒村で生まれ、医家の父、榊光慶の息子である。この玉緒村に生まれたため、名前に玉緒とつけられたことが考えられる。

 京都に出てからは、宮崎家の後継ぎとなったため、「宮崎玉緒」となる。国学者桜戸、また大和介後大隅と称した。

 桜戸は、御室仁和寺宮純親法王(後小松宮彰仁親王)に仕えている。また、桜戸は各種の桜花を集め、多くの桜の絵を巧に描いており、桜の研究家としても知られていた。さらに、学問を好み、特に国典に精通し、和歌もよく詠んでいた。

 著書に『日本文典礎』『日本語学』『言霊本義』『黒繩』などの著書がある。明治二十九年(1896)九月十七日六十九歳で逝去したが、国文学者であり、画家であり、また医師であり、多才な人物であった。

 巌は和歌もよく詠み、家族をはじめとする箏曲に関連した和歌を多く残しているが、桜戸にその「巌」の名を受け、生涯その名で通しているほど、桜戸玉緒に敬意を抱き、少なからず影響を受けていたのではないかと考えられる。
桜戸玉緒と、山口がどのように繋がりがあり、このような名を受けることができたのか、詳細の資料はないが、多くの才能に長け、国文学にも精通する人物であったこの人物から、「巌」名を受けたと推測する。
以下の写真は、桜戸玉緒から「巌」の名を受けた時の書状「名乗正授」である。

写真3 書状「名乗正授」
写真3 書状「名乗正授」

写真3 書状「名乗正授」
(京都府立盲学校岸博実氏所蔵の個人資料より)

 山口も和歌をよく詠み、その和歌が『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』に残っている。その和歌の内容から、山口の人生のなかで、重要な出来事や、大事な事柄を残すため、その思いを和歌に込めて歌ったことがうかがえる。

渡辺、中石、山口三検校京都当道琴優者役員となった時

新玉の 山いただきて 三ツの友
  琴のはやしに 遊ぶ嬉しき

昭和四十年十一月八日軍服の長男肇に背負われ愛宕山に参拝した時

愛宕山 我子のせなに 老の身は
  神のみまへに 安々詣でし

師弟の心得

おしうるも 学も常に 人の道
  まもりて共に わざをみがかむ

記憶のいましめ

ころりんと 覚ゆる時は さらりんと
  する手も早く カラカラと鳴る

心淋しき折にふれ

おのが身を あわれと思う 折からに
  なほふりまさる 五月雨の音

山口の作曲《琴の栄》の歌詞

八ッ橋に かなで初めにし ふき草は
  生田の園に 今も栄えあり
今も世に かなづるひびき 絶えざるは
  八千代生田の 琴の爪音

(二)芸の伝承について

 ここでは、山口の芸の伝承について、箏・柳川三味線・琵琶・胡弓のそれぞれの楽器がどのような系統で伝えられてきたかを挙げていく。

①箏の系統

 山口の箏の系統は、以下図1の系譜のとおりである。倉橋検校以前の系譜は、ここには掲載しなかったが、倉橋検校は、箏曲の祖、八橋検校にはじまり、北島検校を経て、生田検校につながる系統である。この図1での系譜では、真田淑子『検校の系譜』(箏曲伝承系譜(二))を参考に、一部分を抜粋して作成した系譜である。河原崎検校からは、三絃の伝承も兼ねている。

 山口は、師の古川より、渡辺正之とともに、箏の伝承を受け継ぎ、その後、息女琴栄に伝承を受け継いだ。

図1 箏の系譜

図1 箏の系譜

②柳川三味線の系統

 柳川検校(生まれ不明―延宝八年(1680)七月十一日)は、藤下検校(いさ一)を師とし、寛永十六年(1639)に検校に登官した盲人演奏家である。

 柳川検校から伝承された三味線の流派を柳川流といい、柳川流の用いる三絃を柳川三味線という。柳川検校が三味線を教えた際に、自身の流儀を柳川流といっている記録はないが、のちに継承した人々が柳川検校の芸を称えてそう呼んだとの記録が『糸竹初心集』にある。

 山口は、師古川から柳川三味線を伝承され、生涯を通して柳川三味線を用いて演奏した。柳川三味線は京流三味線ともいい、京都で発達し、木ねじ、皮の種類や張り方、駒の種類、撥の改良などから、音色を考えられて伝わってきたものである。山口が東京で活動していた頃は、明治の新しい時代に際して、細棹の三味線や、中棹の三味線でも、象牙のねじが使用され、撥も広くて大きいものが用いられるようになり、その音色も大きく派手なものが流行していた。しかしながら、京都にいた頃から、京流三味線を重んじて演奏してきた山口は、東京でも柳川三味線を用いて、決して他の地歌三味線で演奏することはなかったといわれる。山口は、東京にいた頃、その柳川三味線に対して反抗する声があったとしても、京流では柳川三味線のその気品を尊ぶことと、柳川三味線の音色や守り伝えていかなければならない伝統を大事にし、故郷の地歌の伝承を維持し続けたのである。山口が使用していた三味線の撥は、柳川三味線特有の小さな撥で、東京ではあまり使われておらず、この撥を使用していたのは、山口と東京の筝曲演奏家松島糸寿だけだったそうである。  

 以下は山口が、明治三十三年(1900)九月二十二日に師の古川瀧斎より受けた、箏・三絃の免状の記録である。(写真4 書状「琴三絃両部免状」)

 古川は、書状「琴三絃両部免状」なかで、箏曲における秘曲について、生田流においては《飛燕の曲》、柳川流においては、《堺》《中島》が最も秘曲であるとして、簡単には伝授しなかったが、山口の長年の鍛錬と著しい技術の進歩をみて、歓喜のあまり、この秘曲の伝授を許したと記している。

写真4 書状「琴三絃両部免状」
写真4 書状「琴三絃両部免状」

写真4 書状「琴三絃両部免状」
(『檢校山口巖師五十回忌にあたり』より)

 山口の柳川三味線の系統は、以下図2の系譜とおりである。

図2 柳川三味線の系譜

図2 柳川三味線の系譜
(津田道子著『京都の響き 柳川三味線』京都當道会叢書Ⅰ)』 参考)

 図1の箏曲の系譜は、河原崎検校から三味線の伝承が続いているが、真田淑子『検校の系譜』(箏曲伝承系譜(二))には、古川検校以降の三味線の伝承は記されていなかった。

 この柳川三味線の系譜は、箏曲の系譜と同じ伝承であるので、古川検校以降の箏、三味線の系譜も同一である。

③琵琶の系譜

 山口の琵琶の師は藤村性禅である。藤村性禅(嘉永六年(1853)二月二十二日―明治四十四年(1911)五月二十三日)は京都に生まれ、本名は藤村繁蔵(藤邨繁三とも)である。

 藤村は、十四歳のときから、波多野流 の奥村検校について琵琶の教えを受けた。慶応三年(1867)十四歳で勾当に、明治二年(1869)十七歳で検校となった。また、古来の譜本を使用して「平家正節」を学んだが、この「平家正節」を使用せず古譜を用いたため、「平家物語の平家」といわれた。

 波多野流の琵琶は、京都を中心に伝承され、明治時代に当道座が廃止された際、藤村は収入の道を失い、按摩などをしながら生計を立てていた。藤村の琵琶は、山口をはじめ、岩田喜八、冷泉為系、湯浅半月などの京都の文化人であり、愛好家である人々へ伝えられた。藤村は、当道座の廃止後、一時的に京都盲唖院で教鞭をとったことのある人物であり、この時代、山口は、京都盲唖院において藤村から琵琶を教わったと考えられる。しかしながら、波多野流の琵琶は第二次世界対戦後に、後継者が絶えている。

写真5 大正四年五月の山口の琵琶演奏時の写真

写真5 大正四年五月の山口の琵琶演奏時の写真
(『檢校山口巖師 五十回忌にあたり』より)

④腕崎流胡弓の系統

 山口の胡弓の伝承は、腕崎検校の系統であり、この腕崎検校は、江戸時代後期の盲人の演奏家であるが、生没年は不明である。

 腕崎検校は、伊勢の出身であり、名は絹一という。三宅検校栄一を師として、文化六年(1809)に検校に登官した。腕崎が胡弓をよく弾くことは有名であり、はじめは二絃の擦絃楽器であった胡弓を、三絃の胡弓したのは、この腕崎検校といわれている 京都で胡弓を伝承し、腕崎(先)流の系統を称しているが、腕崎の記録や記述が残っているものが少ないため、その系譜は定かではない。山口は、腕崎の系統である、村上検校から腕崎流の胡弓を受け継いだ。晩年には《玉川》と《西行桜》の胡弓の手付も残している。

 以下図3は、腕崎検校から山口巌までの、腕崎流胡弓の系譜である。

図3 腕崎流胡弓の系譜

図3 腕崎流胡弓の系譜
(津田道子著『京都の響き 柳川三味線』京都當道会叢書Ⅰ』 参考)

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