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検校とは?当道座の設立から終焉まで

こんにちは、箏曲演奏家の福田恭子です。

近世箏曲の父「八橋検校」、生田流箏曲の始祖「生田検校」、山田流箏曲の始祖「山田検校」などなど、箏曲の世界には「検校」と名の付く人がたくさんいます。

これには歴史的な背景が関わっています。

「検校」とは?

初めて見る方は「そもそも「検校」って何て読むの?」と思われるでしょう。

「検校」は「けんぎょう」と読みます。「けんこう」ではありません。

「検(あらた)め、校(かんがえ)る」という言葉に由来し、中世・近世における盲官(盲人の役職)の最高位が「検校」です。

検校の起源

検校の起源は平安時代にまで遡ります。

仁明天皇の第四皇子である人康(さねやす)親王(831-872)は若くして失明し、出家した際に、盲人を集めて琵琶や管絃、詩歌を教えていました。

人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の2官が与えられ、これが検校と呼ばれる盲官の始まりとされています。

当道座の設立

鎌倉時代になると『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人によって琵琶の演奏とともに語られ、室町時代になると、明石覚一(あかしかくいち)が『平家物語』のスタンダードとなる「覚一本」をまとめました。

明石覚一は、播州(兵庫県)書写山の僧であったものの、ある日突然失明し、琵琶法師となりました。

天皇・上皇・親王らのための御前演奏を行うことが多く、琵琶以外にも按摩(あんま)や鍼灸(しんきゅう)の達人でもあったと伝えられています。

その後、足利氏一門(足利尊氏の従弟)であることから幕府の庇護を受け、男性盲人の自治的互助組織である「当道座」を設立しました。

座中の官位は、最高位の検校(けんぎょう)から順に、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)と呼ばれていましたが、これらは更に細分化されており合計73個の位がありました。

ちょっと余談…
盲目というハンデキャップを背負った謎の侠客「市(いち)」の活躍を描いた、北野武監督の『座頭市』という映画がありますが、あの「座頭」です。

なお、当道座は男性盲人のみが所属することができ、女性盲人のための組織としては「瞽女(ごぜ)座」がありました。

当道座の終焉

江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになりました。

しかし、この頃には平曲(『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る様式)は次第に下火になり、地歌三味線・箏曲・胡弓等の演奏家・作曲家としてや、鍼灸・按摩が当道座の主要な職分となりました。

その後、明治4年(1871)の盲官廃止令により、当道座は廃止され、各地において芸能や鍼灸・按摩の同業者組合に再編成されていくことになりました。

箏曲演奏家 福田恭子

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